ぽんとぺんの中学受験(時々英語)

少ない文字数では書ききれないことを、思いついたままに書く。

バイリンガル+中受

低年齢から英語を学びバイリンガルを目指すとして、中学受験をそこにプラスするとき、ボキャブラリーの問題は結構大きいと思う。


バイリンガルを目指す時、一時的にどちらの言語もボキャブラリーが少なくなる可能性があるが、その子どもの勝負どころを中受とするか、高受とするかで随分話が違ってくると思う。


中受に向けて勉強する娘を見ていて、語彙が少ないと大問1、2のミスが多くなると感じる。なぞなぞの答えのような語彙ですら知らなかったりする。あるいは知っていても、あのこれでもかという量の長文があるテストで、大問1、2に割ける時間が少ない故に、反射的に答えが出てこない問題は一旦とばすしかないのかも。そしてとばした後に戻って来られる可能性は低い。みんなが正解する問題を落とすのは致命傷だ。


長文読解でも単語の意味を正確に把握出来ていない時もあり、また、抜き出し問題なども時間内に探しきれなかったりする。日本語に触れてきた時間が圧倒的に少ないので、日本のに対するカンのような、センサーのようなものが鈍いのではと思う。6年の受験の日までに間に合えばいいなと思うけど、今の勉強にプラスして何かをさせる時間は取れない。丁寧に手を抜かず学習するしかないし、あとは本人の伸び次第。


2言語を子どもに学習させる上でダブルリミテッドという問題があるが、本人の向き不向きも大きいと感じる。結局、足が速いとか、絵が上手いとか、そういったものと同じで、0歳からやれば誰もがバイリンガルになるというものでもないのでは。ましてや低年齢では結果はまだまだ出ていない。大きくなって初めてはっきりわかるのかも。


2言語学習させて、どちらも話せるけれど、漢字が苦手だったり、イントネーションが一般的ではなくなってしまったり。そんな話も聞く。1言語だけ学習していればそうはならなかったかも。でも、1言語だけ学習していたってそうなるかもしれない。


子ども自身がどんな自分でも愛せるなら、バイリンガルでも、モノリンガルでもいいと思うのだけど、漢字が書けなかったり、話していて日本語のイントネーションがおかしかったりすると、地域によっては目立ってしまい、自尊心が傷つくことも増えてしまう気がする。



いつも思うのだが、子どもが何かを学んでいるときは必ず何かを失っている。

娘は英語はある程度身についたけれど、その分日本語力が育っていない。中受すると決めたし、本人の能力に見合った学校に合格させるには、英語は受験を終えるまで休憩。

今は仲良しの先生とオンライン英会話を楽しむ程度。これは気晴らしと、彼女のアイデンティティを守るため。そして、できたら少しでも英語力を留めたいという親の欲。これすら来年の今頃には辞めなければいけないだろう。

やっぱり、何かを得たいならば、何かを犠牲にするしかない。

でも、犠牲だと感じないからこそ、中受を選んで日々勉強しているんだろうな。

帰国子女


ぼんやりと考えていることを言語化するのは難しい。だから綺麗にまとめられる気がしないけれど、断片的にでも書き出していこうと思う。


コロナ禍のせいで、話す人が夫しかいなくなり、その夫も家にいるとはいえ、仕事中は話せない。家にはテレビもないし、しんと静まった家で黙々と家事や子供の学習の準備をして過ごす日々。


話さないと、びっくりするくらい話せなくなった。適切な単語が出て来ず、使うのは単純な言葉ばかり。そのうち記憶力が落ち、頭の回転が遅くなった。


海外でのロックダウンを含め丸2年以上こんな閉じこもった暮らしをしたせいで、随分と知力体力共に衰えた。文章を書くことで少しでも私の頭が働くようになればいいけど。



この海外生活5年+日本生活1年で、私の子供はすくすくと成長し、そして海外で育った故に、ちょっと成長の仕方が一般的ではない。子供の事で悩みや愚痴があって人に相談しようにも、似たような例があまりなく、子育てをお母さん同士で心から共感しあうことが難しくなった。

海外で日本人のお母さんたちとも仲良くなったが、海外に住んでいた子供はそれこそほとんど共通点がないんじゃないか、と言うくらい状況が違う。

世間で言うところの帰国子女が、我が家には2人いる。


我が家の娘は帰国子女だが、バイリンガルだとは思わない。

現地校では英、算は一番上のグループにいたし、優等生として生活していた。

帰国後、昔のような勢いはないけれど、英語で困ることは無い。また、小学校生活で困ることもほぼ無く、今のところ中学受験塾でも困っていない。

それでも、バイリンガルだとは到底言えない。

この教育の結果が出るのはまだまだ先。彼女達が大人になって、やっとはっきり見えてくるのかなと。


そもそも現地の学年相当の英語レベル、ネイティブレベルとは何をさすのだろう。

表面上英語が話せても、なんだか違う気がする。


海外で子どもを育てて、また、中学受験塾に通わせて感じるのは、子どもが何かを得ている時には、必ず何かを失っているということ。

特に、海外生活時の日本語の喪失は凄まじく、帰国後1年以上経ってやっと日本語力で失った部分が多少埋まりつつあると感じる。そしてそれは間違いなく、英語力の喪失だと思う。


中学受験をすることで失ったものは、我が家にとってはゆとりある生活。ご飯食べて、お話しして、ボードゲームして、週末は散々遊んで、、という生活をするのは難しい。家族揃って夕飯を食べられない日が週3日ある。


それでも、それを犠牲にしても、得られる物が大きいので中学受験生活を続けている。そもそも娘は犠牲だと思っていない。学ぶことが楽しく、この生活が苦痛ではないのだ。


そんな感じで生活する我が家の子どもは、英語の授業でしか外で英語を話さないので、既に日本生まれ、日本育ちのような顔をして生活している。海外帰りだとは言わなければわかるまい。それでいいと思う。


とある帰国子女の一例。

思ったことを

丁寧に書こうと思うあまり投稿できず、そのうち面倒になり放置。もっと気軽に書こう。


最近モヤっとすること。


「純ジャパ」


英語に関して検索すると、見かける言葉。すごくセンシティブな言葉に感じる。


え?帰国生は純粋な日本人じゃないの?そもそも純粋な日本人とは?海外で暮らしたら純粋じゃなくなるの?


留学経験がなくても、と書けばいいだけなのにね。